世話講談の第一人者。江戸言葉を自在に話し、上方の言葉も熟知。生家は、芸者の入る料理屋。子供時代、芸者の中で育ったためか、 女性がうまいといわれる。
趣味 料理、読書。入新井(いりあらい)第五尋常小学校時代は相撲、講談を聞くための寄席通い。
NHKラジオ放送がきっかけとなり、昭和30(1955)年10月より各寺院で口演。浮世漫談で笑わせてからじっくり聞かせる長講の芸を磨く場となった。
十代から二十代初めの約10年間、吉本興業に所属する。東京渋谷の「吉本有名会」で真打となる。満20歳という最年少真打昇進記録はいまだに破られていない。
ステレオ放送のない時代に、NHKラジオの第一放送と第二放送、同時放送による、日本初のステレオ作品、永六輔構成、立体音楽堂「カラミティ・ジェーン一代記」(昭和36年8月10日放送・生放送)に出演するなどラジオ出演数えきれず。
テレビには、NHK砧(きぬた)の試験放送から出演する。テレビが生放送の時代から講談はもとより、民放のドラマ等への出演多数。
昭和57(1982)年1月より、平成元(1989)年10月録音・記録のための独演会を横浜市内で持つ。講談本来の続き物を中心に原則として一席60分前後で二席演じた。100回開かれ、一席ものを含む全201席を収録した。
フリーである伯龍は、国立演芸場以外の寄席に出ることがほとんどなく、独自の場所での口演で芸を守ってきた。宮岡事務所は、伯龍の講談を聞くために設立され、宮岡社長がこれと思う芸を、楽しむ企画を続け、現在に至る。
11月、36年6ヶ月添い遂げた亡き妻千代
(18歳年上) と同じ、80歳で、逝去。
千代は、講談への志を共有する妻であった。
4月で 芸能生活68年目となる。
8月、宮岡博英事務所による「神田伯龍独演会」33回
最後の口演となる。
宮岡博英事務所による「伯龍・小金冶二人会」
(於国立演芸場)
宮岡博英事務所による「伯龍・米朝二人会」
(於国立演芸場)
宮岡博英事務所による「神田伯龍独演会」始まる。
下町人間庶民文化賞受賞。
鎌倉市へ転居。
講談「小猿七之助」の話芸で、芸術祭優秀賞受賞。
六代目神田伯龍を襲名。
神田光庸に改名。10月伯治に戻る。
四代目神田伯治を襲名し、真打に昇進。
真打への最年少昇進記録。
召集 武山海兵団第122分隊第3班に入隊。
五代目神田伯龍に入門。
伯龍が入門したころ、講談師に二つ目はなかった。
真打ちになるまでは、前座だった。
東京 大森海岸に生まれる。
本名、小村井光三郎(こむらい みつさぶろう)